成熟した男性の元型、成熟した女性の元型について掘り下げる前に、育成の本質について詳しく説明する。今までは箔付けのために聖書を引用してきたが、今回はそれに道教が加わる。

人間の本性と環境が現実にどのような影響を与えているか概説する前に、前置きがある。人間の本性とは、自我、つまり「私である」ことを指す。本性とはあなたがどんな人間であるかを表し、性別は環境的なものである。環境とはあなたが経験してきた全てであり、他者の外的な性質があなたに対して行ったことである。自我そのものは、より内向的な視点であると言える。

これは内向型と外向型の違いではなく、自我そのものの話である。自我とは本質の源である。自我の起源は神や創造主、中国の東洋哲学が絡んだ壮大な話になる。各宗教には独自の視点があるので、どの宗教を選ぶかで答えは変わってくるだろう。

要点は本性は「私」、育成は「私たち」、つまり外部の人々が集合的にあなたに影響を与えたものであり、それによってあなたは変化する。あなたには本性と育成があり、それらは陰と陽の均衡にある。心理機能には堅固なものもあれば、柔軟なものもあるというように、陰と陽の性質が数多く存在する。

TiとFeは軸で繋がっており、これは陰陽の軸となる。TeとFi、NeとSi、NiとSeも同様である。これらを混ぜ合わせると、多次元の陰陽システムになる。この特性は、最終的に自我そのものとして知られるものとなり、自我自体は自分自身を調整し、非常に強固で、男性的な力である。8つの認知スペクトルについて思い出して欲しい。私たちの心はラジオのようなものである。

精子が卵子と融合すると、精子は男性的な生殖力のようなものなので、人間に生まれつき備わっている認識を運び、自我を運び、それが内部に入る。精子が卵子に入ると、それは人の頭蓋骨、脊椎、中枢神経系、脳のようになる。その後、人間の臓器と残りの部分は卵子によって提供される。認識そのものは、男性的な観点に由来する。自我は女性的な性質を持つこともあるが、自我自体は男性的である。

ここには一次と二次の陰陽関係がある。男性は陽と、女性は陰と関連しているが、それらは互いに均衡しており、それ自体の中に他の特性を持っている。それが私たちの自我を構成し、人間の本性でもある。ユング分析心理学には様々な解釈があり、MBTIやソシオニクスもそのひとつである。ビッグファイブは非常に限定的で、人の本性と育成の混合物である。私の理論もそのひとつである。私がこれを利用して人間の道、人間であることの意味を説明するのは、読者に知恵を与えるためである。

それは時に痛みを伴うかもしれないが、知恵を得れば成長できる。伝統的に光の象徴は真実と結びつけられており、光は燃える。地獄の炎のように非常に熱い。もし創造主が純粋な光であるならば、その光に近づくのは苦痛ではないだろうか?その真実に近づくには、痛みに耐えなければならない。神の栄光に近づくことができるのは、イエス・キリストだけである。キリストは神の子であり、真理の体現者でもある。

ここにも陰と陽の均衡がある。真実とは非常に堅個で絶対的なものである。人々は地球が平らであるという信念を持っていたが、それは真実ではない。客観的な真実が存在するのと同様に、主観的な真実も存在する。前者は陽、後者は陰である。我々の生活のほぼ全ての側面は、巨大な多次元の陰陽システムである。多くの人がこれを理解せず、歪んでしまう。だから自分の本質を理解し、本質と育成の違いを把握することが重要である。性別の問題はこのシステムに適合し、人間の生活を構成している。

ところで、ブルース・リーが哲学者であったことを知っているだろうか?彼の哲学について学べば、人生というシステムの物質および非物質的側面について、理解を深めることができる。以前、人間の本質と育成をベン図で説明したことがあるが、これに物理的環境と形而上的環境の円を付け加えることができる。これが多次元の陰陽システムである。

自我は人間の心、または魂を含んでおり、それは基本的に男らしさや女らしさの領域外にある。性別は育成の問題である。これは人間が決められるものではない。性別は精子と卵子が融合して分裂した後に、非常に早い段階で決まる。育成とは、基本的に誰かの過去である。それは、その人物が今までにどんな人間と、どんな関係を築いてきたか、どんな文化の中で生活してきたか、環境的な条件に近い。社会的規範、倫理、場合によってはロゴスも個人的な経験を作り上げる。それが人間の育成である。

人々ができる限り成熟するように支援しなければならない。特に男性を成熟させ、成熟した男らしさを持たせることができれば、女性は男性を尊敬する。そして社会における父親の不在に終止符を打ち、人類は軌道に戻るだろう。未熟さという脂肪を削ぎ落すことで、社会が自らの重みで崩壊することを防ぐ。それは痛みを伴うプロセスである。苦しみは知恵をもたらす。真実の炎に苦しむ覚悟がなければ、知恵を得ることはできない。知恵は最も貴重な物質である。知恵があれば欲しいものは何でも手に入る。

中年になってから、過去の決断を後悔している人は大勢いる。16歳までに自分のニーズを満たす必要があることを理解し、元型の中で王や女王になる道を歩んでいることを理解できるように、幼い頃から知恵を教えるべきである。王は自分の家、自分の仕事を持ち、家族から援助を受けずに自給自足する。王は自分の城を持たなければならない。育成の講義は、私たちがより良い人間になるために何が必要か理解できるように、そして私たちが持っている過去の経験を活用して、夢を実現するために知恵を得ることができるように行っている。

私の夢は作家になることだったが、ある意味でそれは叶った。野心を持ち、それを実現する。その結論には責任を負い、自分のニーズを満たすことで辿り着くことができる。ニーズを満たすために個人的な基準を持ち、他人に妨げられないように境界線を作る。そうすれば個人的な目標が自ずとわかるだろう。自分が何者で、何のために存在するのか。全ての決断はそこに由来する。  

それが育成である。タイプは心であり魂であり、王や女王の元型は人間の本性と密接に結びついている。育成は恋人と結びついており、人生を楽しむ元型である。これは恋愛やセックスだけではなく、人生を楽しむ活動全てを指す。人間は失敗や苦しみがあっても、経験を積む必要がある。失敗や苦しみは我々に知恵を与えてくれる。それは育成を通して得られる。育成と本質が組み合わさると、主権を持つ人間とは何かが理解できる。

さらに、人間の周りには物理的環境がある。熱力学の法則があり、微生物、動物、マイクロバイオームなどがある。胃や脳などの臓器があり、コレステロール、砂糖、炭水化物、タンパク質、ナトリウムなどを摂取する。これらの物理的環境との関係は、本質や育成によって変化する。人間は地球の管理者であり、未来の為に環境を保護しなければならない。同調圧力で環境保護を強要されると、そんな気も失せるかもしれないが、資源のリサイクルには責任を持つべきだろう。

私たちは「今」を生きている。昨日は終わったが、その過去から知恵を得ることはできる。そしてより良い未来に向けて取り組むのである。頂点は未来であり、霊的領域、形而上学的領域、非物質的領域である。底辺は環境であり、物質があり、客観的な領域である。全ては均衡しており、自然自体も陰陽の法則に支配されている。「私」は陽、影は陰である。潜在意識と超自我にも同じことが言える。同様の法則はあらゆる場所に見られる。

男性であれば、自我は男性的である。しかし潜在意識にはアニマ、つまり女性性がある。自我が女性なら潜在意識は男性的である。全ての人間は男性的特徴と女性的特徴を併せ持っているが、その特徴は異なって表れる。例えばENTPは女性的なタイプだが、それが男性の身体を持つと、自我の女性性と潜在意識の男性性が調和して、全てが均衡する。

何かを分析する際に、定義は重要である。この定義は他に付随する全ての均衡を考慮したものである。しかし時には、小さな論理のピースを検分するだけでは不十分である。これが倫理が重要になる理由である。論理が重要なのは、巨大なシステムを認識するために、論理的根拠が必要だからである。ただし、ロゴスはその根拠を検証するのに時間がかかる。最終的に全てのピースを理解し、全体像を把握する。しかし個々のピースを見逃して、「木を見て森を見ず」という状態になることもある。それを補うのがエトスである。

我々自身がパズルのピースとして、集合しなければならない。私個人としては気が進まないが、理想的にはそうである。もし自分のピースと合う人間がいれば、団結して大きなことを達成できる。創世記によれば、人類に不可能なことは何もない。全てのタイプが集まれば、全ての心理機能を利用できる。現実的には、人類は分裂しており、それが問題を引き起こす。ただし、分裂は団結と同様に重要である。個人の主権は尊重されなければならない。そして、「隣人を自分のように愛する」のである。

これを周知するには、知恵をもたらし、無知を取り除く必要がある。知恵が増すほど、我々はより良くなる。そのためには、まず自分自身を愛さなければならない。利己的になり、自己愛を実践した結果、隣人を愛することができるようになる。そのために自己親密性の4つの柱と、自分が何者か知ることが必要になる。陰陽の均衡の例は道教に基づいている。だからタイトルが「人間の道」なのである。イエスは十字架で亡くなる前に、自分の運動をそのような名前で呼んでいたらしい。

シンボルは、人間が精神的な領域について議論し、理解する方法である。形而上学的、量子力学的、非物質的、主観的とも呼ばれる領域である。これは「未来」としても知られている。あるいは「もしも」と言ってもいい。人間は巨大なパズルの一部であり、人間自身がパズルでもある。「もしも」、つまり集合的無意識によって、人間は繋がっている。我々は過去に集合的な個人的経験を持っており、自分が誰であるかを知っている。それは重要なことである。 

一般的には、自我を持たないことが推奨される。しかし自我がなければ自立することはできず、家畜に過ぎない。「自我は人間存在の痛みと悲惨の原因だ」と言う人もいるが、その責任は超自我にある。超自我は自我に取って代わろうとしている。宗教界によれば、それは罪の性質の源である。必要なのは、自我を成長させることである。苦しみ、痛み、失敗から知恵が生まれる。失敗を避けるのは、成熟していない人間である。

愚か者は間違いを訂正されると憤慨するが、賢明な人間はそれに感謝する。情報とはピラミッドのようなものである。最初はデータだが、それが知識となり、最終的には知恵となる。しかし知恵を得るには痛みを避けては通れない。逆境を受け入れて乗り越えることが、人間の道である。

賢くなければ全てを手に入れることはできないが、社会はあなたが賢くなることを望んでいない。自我を殺して社会の犬として従属することを望んでいる。自我の成長に伴って超自我が自我に従属するのではなく、自我が死ぬのである。「利他的な人間にならなければならない」と思うのは危険である。まず利己的になり、自分を大事にできなければ、他人を助けることもできない。

パズルの1ピースに拘るのも良くないだろう。人生は良い面も悪い面も経験しなければならない。それが知恵を育む。自分の失敗から学ぶことも、他人の失敗から学ぶこともできる。知恵があれば自我は成長するし、成長は生命の証である。賢い人間は稀有な存在であるが、そのような存在になることができれば、人類が自らを破滅させることを防ぎ、個人の主権を促進することが可能になるだろう。

チャップリンの「独裁者」に倣って言うなら、「超自我が死ねば、人民は永遠に自由である」。我々は超自我をコントロールする方法を学ばなければいけないが、自我を殺してはならない。そうなれば残るのは超自我だけである。その代わりに知恵を得て自我を成長させれば、より良い未来を手に入れることができる。それが人間の在り方である。