実際には、両向性という概念は存在しない。辞書的な定義では、外向と内向の両方の特徴を持っている人である。つまり人類全員が両向性であることを意味する。心には4つの側面があり、あなたが内向的な自我を持っているなら、無意識や潜在意識は外向的である。
我々の魂は4つに分かれて、1つの全体像を形成している。誰かと恋愛関係に落ちると、究極の魂になる。いずれにせよ、両向性は実在しない。フェイクニュースである。「私は外向でも内向でもない、両向性だ」と言いたがるのは、SPである。彼らは何かにラベル付けされることを好まず、類型論は疑似科学に過ぎず、具体的でも現実的でもない。SPにとって、目の前にないものは存在しないも同然である。しかし両向性も形而上学的概念であることに、SPは気づいていない。
両向性に代わる形而上学的概念が必要である。誰もが内向的であり、外向的だが、ここで言おうとしているのはプライマリ対セカンダリの概念である。この概念は、性格タイプの全ての側面に存在する。これは形而上学だけでなく、現実の側面にも存在する。言い換えると、陰と陽である。陽は堅個な男性性、陰は柔軟な女性性である。陽は炎、陰は水とも言える。イン・チャージとフィニッシャーは陽、スターターとバックグラウンドは陰である。
世の中には男性的な女性が好きな男性や、女性的な男性が好きな女性も大勢いる。NJの女性は意志が強く、率直で、自分が何を望んでいるかわかっている。NPの男性はお喋りが好きで、自分が望まれて、何をするべきか指示されることを好む。彼らは男らしさや女らしさに欠けることを非難されることもあるが、それを前向きに捉える人もいる。
この陰と陽の均衡は、我々が知っている全ての現実に浸透している。全てのものにはプライマリとセカンダリの特性がある。それには人間の魂や認知も含まれる。これは心の4つの側面に、どのように影響するのだろうか?自我はプライマリである。無意識はセカンダリに思えるが、プライマリである。潜在意識と超自我はセカンダリである。これに符号をつけると自我は++、無意識は+-、潜在意識は-+、超自我は--となる。これについては改めて説明する。
潜在意識を発達させれば幸せになり、無意識を発達させれば賢くなる。実は潜在意識に移行するよりも無意識に移行する方が楽である。超自我は核爆発モードなので、飛び降りるだけである。ボタンを押すだけで、すぐにアクセスできる。その結果、現実は崩壊する。
外向と内向を分類するには、人が開始するか応答するかを判別すればいい。これは彼らの自我に基づいている。自我がINTJの場合、彼らは応答型なので、内向になる。両向性が入り込む余地は一切ない。自我が反応するか、行動するかが全てである。自我は人が主な時間を費やす心の側面であり、エネルギーの供給源である。外向型なら3人以上の集団からエネルギーを得るし、エネルギーを吸い取られた内向型は1人になりたくなる。そして精神エネルギーを充電してから、再び外向型と馴れ合うことができる。
内向型は1対1の状況の場合、相手が外向型であっても、そこからエネルギーを生み出すことができる。「そんなことはない」と主張する内向型もいるかもしれない。確かに迷惑な外向型はいるが、それ以外の要因もあるだろう。電話がかかってきたり、メールに返信しなければならなかったりする状況では、そこに外向型が加わると「1対1」ではなく、3人以上の状況になり、精神エネルギーが枯渇する。
外向型が内向型からエネルギーを得る際には、彼らが充電しきっているか確認する必要がある。外向型が十分なエネルギーを吸収すると、内向的になることもできる。内向モードで外界をシャットアウトして仕事を終わらせることに集中しなければ、外向型は宿題や課題を提出することができない。両向性とは、現実ではない。単に内向型でも外向的になれる、あるいはその逆であるというだけである。それでも潜在意識や無意識、超自我に入るとエネルギーを消耗し、自我に引き戻される。
自我に入れば、エネルギーが再充填される。両向性の問題ではない。誰もが外向性と内向性を持っている。これはプライマリとセカンダリの問題である。あなたがINTJの自我にいるなら、あなたは内向的である。あなたがESTJの自我にいるなら、あなたは外向的である。だから、両向性という概念のことは忘れていい。読者が理解できたか心配だが、今回は以上とする。
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