まず基本として、人間は心理機能を軸に16のタイプに分けられる。この概念はスイス人医師カール・ユングの妄想に端を発している。彼はフロイトという高名な医師に師事したものの、「こいつ何でも性欲で片づけるな。俺も自分の理論でも作るか」と思い立って離反した。思い立ったはいいが、今度は「誰も俺の言ってること理解してくれない…」とくよくよ思い悩むはめになる。「どこかのNiが言いそうな台詞だな」と思った読者がいたら、それは正しい。ユングは内向直観型、フロイトは内向感情型である。

この妄想は突然ユングの頭に浮かんできたわけではなく、先駆者がいる。哲学者プラトンのイデア論は、ユングの元型の元ネタと言われている。「プラトンとユングとエリアーデの元型は全て別で云々」などの話もあるが、面倒くさいので割愛する。とにかくユングは何もないところに天啓を受けて閃いたわけではなく、必死に資料をかき集めた上で理論を作った。例えば、「非合理」はベルクソン、「超越機能」はゲーテからパクっている。妄想するのも楽ではない。その割に妄想が後世に残るのは抵抗があったのか、「ユング派とか作らないで!」と言い張ったのに、無視された上に研究所まで建てられてしまった。

前提として、全てのタイプはバランスが悪い。良いタイプも、優れたタイプもない。MBTIの「どのタイプの個性も素晴らしい。みんな違ってみんな良い」という標榜は真実ではない。が、そんなことを言われても「わかった。自分の思考パターンを変える努力をする」と考える人間は殆どいないだろうし、仮に思ったとしても続かないだろう。大抵の人間は「自分が変わる努力はしたくないけど、他人には都合よく動いて欲しい」と思っている。だからこそ、類型に興味を持つ。それを「自分を知る」とか「人間関係に役立てる」という綺麗な言葉で言い換える。「自分を知る」、それは良い。プラトン曰く、全ての悪は無知に根差している。が、タイプを知る前は自分を知らなかったのか?というと、そんなことはないだろう。知ったのは「タイプとしての自分」であって、「本当の自分」でも「自分の全て」でもない。何が言いたいかというと、タイプでは人間の全てを説明できないし、タイプを知っただけでは自分を知ったことにならない。しかし当然のことながら、類型論にはまるとタイプを基準として、あらゆる現象を心理機能と対応させることになるので、全ての言動がタイプに由来するような錯覚に陥ってしまう。

これは心理機能の「4」という数字からも説明できる。幾何学的には、この数字は四角形を表す。四角形は四方を制限するが、周辺を防御する壁にもなる。つまり、私たちは「タイプ」という箱に入っており、そのことに安心も感じている。4は完全と完成を表す数で、ユングのお気に入りだった。ということで、ここでは一人につき四つのタイプが存在することにする。公式のMBTIにそんな理論はないが、どうせなら入れる箱が多い方が嬉しいだろう。

そもそも、なぜ私たちはタイプ論に夢中になってしまうのか?これには「抽象化」という効果が働いている。作り話だとわかっていてもドラマを楽しめるのは、画面の中で演じられる物語に人間のパターンを見出すからだろう。これと同様に類型も人の性格をパターン化している。実は数学にも同じ概念が当てはまる。学生時代を思い返せばわかるが、nとかxとか使って計算していたし、その行為に疑問も持たなかっただろう。そう考えると、数式を信用するのも疑似科学を信用するのも同じメカニズムなのかもしれない。MBTIが統計的に云々と言っている人々も、本質的には同じものを信じているのではないだろうか。

ところで「類型の価値とは何か?」とある人に尋ねたら、「自分を正当化すること」と返ってきた。実際、心理学を自己崇拝としての宗教と考える学者もいるが、私が思う類型の価値は「本当の自分がわかる」。本当の自分と言っても「性格が当てはまる」という意味ではなく、それをどう使うか、何を語るかにその人間の本質が表れる。

「なぜ類型に価値がないのか?」と聞けば、大半の人は「科学ではないから」と答えるだろう。なぜ科学ではないと価値がないのか、自分の言葉で説明できるだろうか?これと同様の例で、はじめ類型に夢中になっていて、知識がつくにつれて「心理学の方が役に立つ」と言い出す人間がいる。それ自体は否定しないし、少しは賢くなったと思うが、心理学も宗教やスピリチュアルと同列で論じる書籍もあることは知っておいた方がいい。そういう人間は「数字」という尤もらしい保証に飛びついているだけで、自分の考えは何も持っていない。「類型で人間を説明できる」と思い込むことと、「心理学なら信用できる」と思い込むことは、対象が変わっただけで本人の思考回路は変わっていない。「知識はツール」と言うが、そのツールに使われている人間は多い。断っておくが、私は「科学に価値がない」とか「統計に意味がない」と言いたいわけではない。しかし、とんでもない馬鹿でもない限り、「類型が科学ではない」ことはわかっている。「『類型は科学ではないから』価値がない」というのは、当たり前のことを言っているだけで、何も語っていないに等しい。問題は科学かどうかではなく、それを使う側にある。知識に対して「使える」「使えない」と品定めする前に、自分がそれを使いこなせる器なのか考えてみた方がいい。

壊れたラジオのようにタイプになり切って自分語りしているのも、念仏のように「類型は使えない」と唱えているのも非生産的なので、これを役立たせる方法を考えなければならない。問題はタイプに囚われて視野が狭くなることと、「活用」する具体的な方策がないことにある。ではどうすればいいか?まず、自分を構成するタイプ以外の要素に目を向けることと、類型外の分野から実用性を拝借することが重要になるだろう。

文字数も稼げたところで心理機能について説明しておくと、これは知覚と判断に分かれる。心理機能は情報を収集して決定を下す方法を表すが、決定から情報を収集する必要が生じることもあるし、決定するために情報を収集することもある。どっちが先でもいいが、ここでは心理機能を以下のように分類する。

世界は内面と外面、個と集合を組み合わせた四つの視点に分割される。この「集合」はユングの集合的無意識とは関係ない。心理機能はそれぞれ次の視点を代表する。

個・内面→Ti, Fi

個・外面→Ne, Se

集合・内面→Ni, Si

集合・外面→Te, Fe

MBTIでは「自分を知る」ことの大切さが強調されるが、自分の内面同様、外面(社会)にも目を向けなければならない。逆に「類型は使えない」とうるさい連中は、外面(客観)的な価値だけではなく、内面的な価値も認める必要がある。内と外の役割を同時に類型に押し付けるから、話がおかしなことになる。

先ほど「一人につき四つのタイプが存在する」と言ったが、これは心に四つの側面が存在するためである。まず、主要な側面として自我が存在する。自我は心の快適な状態で、「タイプ」という場合は基本的にこの側面のことを指す。しかし知ってのように、なかなかタイプが決まらない人は一定数存在する。苦肉の策(?)で「私のタイプな~んだ」ごっこをしている姿がSNSでも散見されるが、これは心の状態によって側面が変わるせいである。

次に無意識にある影。ユング心理学では無意識を理解することが重要な点であり、影は色々な影響をもたらす。三つ目は潜在意識。潜在意識は自我と正反対のタイプが存在する場所で、このタイプには魅力も感じるが課題も多い。そのうちINTPの私とESFJの母の闘争について話すかもしれない。「人の不幸は蜜の味」と言うし、親子関係に問題がなくても面白いだろう。そもそも、わざわざ別のブログを作ったのは「結局いい人間関係とはどういうもので、どうやって構築すればいいのか」という疑問があったためだった。ただ、考える際に「この理論では○○だけど、こっちの理論ではxxと言っている」となるのが面倒くさいので、全てをひとつにまとめることにした。

最後に超自我。マーティン・ルーサー・キング、ではなくマルティン・ルターによれば、我々は罪と死と共にあり、腐敗や邪悪なものを望み、理解し、切望している。彼は一日六時間、懺悔しても自分の罪深さから逃れられなかったというが、このように超自我は腐敗の源になる。自我・無意識・潜在意識が世界に対処できない時は、超自我の出番となる。もっとも常に破壊的な結果になるわけではなく、「悪い方法で善行を行う」こともある。問題は日本では超自我が機能しない説があることだが、三つの側面で三位一体も日本らしくないので、ここでは「機能する」という設定で話を進める。

つまり、心には四つの側面があり、それぞれに四つの心理機能が対応する。「テストでINFJと診断されたから人の気持ちがわかりすぎて困っちゃう」と喜んでいるところ申し訳ないが、あなたは特別な人間ではないし、その程度の「自己理解」では他人のことも何もわからないだろう。今後「このタイプはこうで~」という話もしていくが、その情報を適切に利用できる人間であってもらいたい。