かつてカール・ユングは「世界は細い糸にかかっている」と言った。宇宙が緊張とバランスの間に保持している形而上学的な関係について、電波を受信したのだろう。適切な緊張があれば、「全体性」という概念がゆっくりと実現される。個々の魂にとって、人が新しい洞察の統合、真実の実現、哲学の適用によって、より豊かな存在の中に自分自身を見つけることができる。これは仏教の「中庸」の概念によって見事に表現されている。

自然、哲学、生物学、そして人間の心にも「細い糸」を見つけることができる。陰陽は緊張とバランスを象徴するシンボルである。これを使って、Feユーザー、特にFJたちが適切に愛する方法を説明する。

陰と陽は常に緊張関係にあるため、互いに不可欠なものである。Feは常にTiとリンクしている。一見すると、Feは思いやりと共感であり、周囲のあらゆる感情を吸収するスポンジである。それは動的な混沌であり、Feユーザーが関わる人、存在する場所によってアプローチや性質が変わる。

この副作用として、Feユーザーが経験する感情は不安定である。Feユーザーは自分が気にかけられていないのに、周囲の人々を助けたり救ったりしないといけない気がすると、神経症的で惨めに感じることがある。これは思考停止に陥ったり、過剰な警戒状態に繋がり、偽りの攻撃的な利他主義が思いやりに取って代わる。そして最終的に他人をシャットダウンする。共感によって自分に課せられる負担は、重すぎる可能性がある。このシャットダウンはバランスを失っている証であり、適切な緊張を回復する必要がある。

内向的思考を適切に使用すると、Feユーザーが構造を構築するための基盤を提供する。なぜ?Tiは主に真実が何であるかに関係しているからである。内向的思考はFeユーザーに調整ツールを提供し、背骨を構築する。この軸は、混沌としたエネルギーが爆発することを防ぐ。Tiは罪悪感を無効化し、Feユーザーにできることが何もないことを理解させる。内向的思考が提供する構造の中で、Feユーザーは神経症に陥ることなく強力に動き、機能することができる。Tiは明確かつ実質的な方法で、人の知的関係と共感を調整する。

共感は美徳ではないが、悪徳でもない。他の特徴と同様に、それは道徳的に中立である。しかし、共感を使うことには道徳的な性質が含まれる。共感は単なるツールではなく、共感を構築したり癒したり、破壊するために使用できるツールである。他人が感じていることを自分も感じる時、その人物の最も深い脆弱性が見える。最終的に性格を決定するのは、これらの脆弱性を巡って起こる戦いである。

共感はただ感じるだけでなく、活用するために設計されている。つまり、行動を強制するために存在する。他人の感情を吸収して、どう行動するかを決定する指針となるのが内向的思考である。これはフィードバックループである。他人の感情を受け取り、思考を通じて適切だと判断した方法で行動する。

エンパス(笑)が直面する困難は、共感の義務に伴う負担である。他人の痛みを感じる時、その痛みを取り除きたいと思う。彼らの痛みや苦しみを自分のもののように感じることが、思いやりである。しかし場合によっては、救助しないことが相手にとって最善なこともある。苦しみを消し去ることが、その人物にとって最善とは限らない。痛みが存在することには理由がある。

痛みは我々に、何かが間違っていることを知らせる信号として機能する。本質的な問題が解決されない限り、この痛みは決して消えることはない。これが内向的思考の目的である。感じるだけでは十分ではない。

「親切」とは常に愛のあるものである。「良い」とは常に不快感や痛みを最小限に抑えるものである。優しくすることが間違っているわけではないが、不完全でもある。「優しさ」とは、Tiを伴わずに孤立した外向的感情である。優しさとは、FeとTiが対となって舞踏を踊ることである。

これらの機能は、アリストテレスが徳を定義するために使用した連続体上に存在すると言える。一番左が優しさで、感情が重要な世界である。そして一番右は超論理的な思考である。絶え間ない懐疑、批判、冷酷さ、傲慢、他者の拒絶。これは全てTiの特徴である。両者が融合すると、豊かさと深みが生まれるが、単独である場合、根拠がなく、理解に乏しい。FeとTiを結び付けることで、それらを美徳の状態に移行させることができる。

この美徳は、愛についての最後のセクションに人々を動かす。愛は過去、現在、未来に目を向け、全てを考慮して、その愛を向ける対象が癒し、健康、繁栄に至る道筋を提供しようとする。愛は非常に精神的であり、実践的である。

人々の気分を良くすることは、Feユーザーの主な義務ではない。彼らの役割は、不必要な痛みや苦しみを最小限に抑えながら(苦しみは必要なこともあるが、美徳ではない)、その人物を良い方向に向けて動かすことである。これが真に高潔で愛情深いFeユーザーのやることである。そのためには、真実の恐怖に負けてはならない。真実が他の人々に与える影響は、Feユーザーにとって恐ろしいものである。痛みを伴わない真実は滅多にない。しかし、真実を利用する勇気こそ、Feユーザーが愛を表現する手段である。

世界は常に愛を必要としている。共感と論理、恵みと真実を通じて愛を提供することが、Feユーザーの義務であり目的である。これについては微妙なニュアンスが無限にあるが、重要なのは、あなたが自分のありのままを恐れないこと、そして内向的思考と外向的感情の責任と特権を、優雅に受け入れられるように成長することである。