前回は「社会の犬」こと外向的思考について説明したが、今回は内向的感情、通称Fiを取り上げる。量産型ENTPが「お気持ち」と揶揄するあれである。しかし、「お気持ちとは何か」と尋ねても彼らは答えられないだろう。彼らのFiはトリックスターにあるので、実際には、この機能について理解も認識もしていないのである。

FiユーザーはINFP、ISFP、ENFP、ESFP、INTJ、ISTJ、ENTJ、ESTJの8タイプである。これらのタイプは同時にTeユーザーでもある。TeとFiは同じ軸にリンクしている。ちなみに私がSiユーザー、Neユーザーなど○○ユーザーと言う時は、自我にある四機能にその心理機能を持つタイプを指している。

内向的感情は四つの判断機能のひとつである。外向的思考が合理性、あるいは論理的根拠を担うなら、内向的感情は道徳的な意思決定を行う。同じ感情でも、外向的感情は外部の倫理によって判断を下す機能である。

前回のおさらいになるが、Teは意思決定のために外的な基準を採用する。言い換えると、多数決で物事を決める。根拠となるのは統計、確率、大勢に認められた権威者などである。多数派がそれを正しいと言うなら、彼らもそれを正しいと思う。そして、まるで自分でそれを考えたような顔をする。一方、Fiは個人的な良い・悪いの判断である。

ここでTeとFiが繋がっていることを思い出してもらいたい。読者には「Fiは○○(A=B)」ではなく、「FiはAだからTeはB」という考え方ができるようになって欲しいものだが、Fiがヒーローなら自動的にTeは劣等機能になる。つまり一番目のスロットにFiがあるならTeは四番目のスロットに、二番目のスロットにTeがあればFiは三番目のスロットに入る。

TeとFiは同じ軸にあるので、片方の反応はもう片方にも影響する。Fiは道徳的判断だが、その対象は主にTeである。彼らはニュースや新聞記事、権威のある人間などを感情で判断する。犬にも感情があるのである。犬と言えば、動物の性格タイプに関する研究もある。基本的に彼らはデータや肩書さえ与えておけば満足するので、とんでもないことを信じ込む可能性がある。その防波堤になるのは彼ら自身のFiと、彼らに真実を教えるTiユーザーである。私は彼らの大好きな資格を持っていないが、彼らは私の周りに集まって来る。これは奈良公園のシカが煎餅を持っている人間に群がって来る現象に似ている。シカは煎餅の作り方や材料について理解しているわけではないが、「煎餅が好き」という気持ちに忠実なのである。

TeとFiという二つの判断機能を持っているが、彼らが自分で意思決定を行うのはFiのみである。彼らは思考についてTiユーザーに「どう思いますか?」と聞く必要がある。何故なら、Teは真実とは何の関係もないからである。そんなに馬鹿じゃない?では、この理論のどこまでが真実でどこからが私の創作か判断できるだろうか?できないだろう。逆にFiユーザーは道徳的決定によってFeユーザーを導かなくてはならない。

この「どう思いますか?」が問題で、そう聞かれたからと言って相手がT型とは限らない。それはTJではなくFPかもしれない。相手が聞いているのはあなたの考えではなく、あなたの気持ちかもしれない。もっと言えば、期待しているのはあなたの正直な答えではなく、自分の意を汲み取ってもらうことである場合もある。

Fiユーザーは自分の感情を表現しないとよく言われるが、これには理由がある。彼らが余計な感情表現をしないのは、自分の気持ちを穏やかに保っておきたいためである。彼らは相手に対する評価をはっきり自覚しており、特にFiヒーローの判断は速いが、その判断を共有したり感情を表に出すと何かと面倒なことが起こる。それは彼らの心の平穏を脅かすので、望ましくない。Teの合理的精神も働いているかもしれない。彼らが本当に尊重しているのは相手の価値観ではなく、自分の気持ちなのである。これがFiユーザーの「思いやり」である。だから彼らが何も言わないからといって、同情されているとか、尊重されていると勘違いしない方がいい。

また、彼らが感情を満足させるには、ステータスを得て評価される必要がある。ENTJは大企業のCEOになりたいし、INFPは有名バンドのボーカルの妻になりたい。名声を得たり脚光を浴びて注目されると、彼らのFiは良い気分になる。だから彼らはいつも「使える」情報を探しているのである。重要なのは真実ではなく、彼らの気持ちである。しかし、権威に文句を言っているTJや、「社会に囚われない価値観」を主張しているFPを見たことがあるだろう。

これはTeとFiが結びついていることによる弊害である。Teはステータスを求めるが、時にそれはFiによって偽装されることがある。つまり、本来はステータスを得てFiを満足させるのが正しい姿なのだが、それが思うようにいかない場合、力のない自分を優しい人間として自己正当化に走ることがある。いわゆる「弱者の道徳」である。この場合、道徳は自分の弱さを正当化したり、ステータスのある人間を批判するための口実になる。

例えば、「人が自認するタイプを尊重する」というのも道徳的判断である。道徳と言えば、マイヤーズの謳う「人それぞれの個性を認め合って仲良くしましょう」という標榜に感銘を受けたFiユーザーも多いのではないか。

しかし道徳について語るなら、同時に偽善と偏見の問題にも目を向けなくてはならない。偽善者と言えばINFJだが、全てのタイプが偽善を孕んでいる。自分の影を認識していない人間は、誰もが偽善者なのである。個人的に、私はこの「影」と「偽善」に非常に興味がある。各タイプがどのように偽善を表現するかは、いずれ取り上げたいところであるが、ここではユングが偽善をどう考えていたか引用しておく。

全ての個人は内面的な革新を必要とします。しかし、それはキリスト教の偽善的な愛、社会的責任、美麗字句で取り繕った権力への欲求によるものではありません。

あなたが自らの影を直視することを学べば、他の人々を理解し愛することにもなるでしょう。偽善を退けて自己認識を高めることだけが、他者への尊敬に繋がります。私たちは自分の性質にある不正と暴力を他者に転移してしまうのです。

カール・ユング

これはFiの記事なので私の好き嫌いの話をすると、私は弱者も偽善者も嫌いである。ここで言う「弱者」とは障害者や少数派のことではなく、被害者ぶって他人を悪者にしたがる人間のことを指している。彼らの言い分を聞くといかにも「虐げられし善人」といった印象を受けるが、本性は腐り切っている。力による被害はわかりやすいが、弱さもまた人を傷つけるのである。そして、その弱さとはしばしば道徳の仮面を被って現れる。

前回の話と合わせて、これでTe-Fiユーザーのことが分かっただろう。彼らはステータスを得ることで自分の気持ちを満足させる。あるいは、道徳的判断によって他人のステータスを貶めることで、自らの価値を高めようとする。特にFPたちは自分の判断が「弱者の道徳」になっていないか考えた方がいいだろう。次回は軸を構成する別の組み合わせであるFeとTiを取り上げる。